”まるサテ”を牽引する新たな戦力は異色の経歴を持つ移住者!キャップクラウド株式会社の『中村琢哉』さん

自然豊かな地方とは対照的な摩天楼聳える大都会。世界経済の中心であるアメリカで、市場経済社会の象徴ともいえる不動産金融商品を扱う仕事から、山梨県の北杜市で地域おこし協力隊として農業NPOに転身。今年4月から、キャップクラウド株式会社で事業推進責任者として地方創生事業に携わる中村琢哉さんにインタビュー。その異色とも言える大きな振れ幅のご経歴や富士吉田市の印象、まるサテが進んだ富士吉田市の未来像などを聞きました!

▼中村 琢哉さんが富士吉田市と繋がるまでの経緯

今回インタビューさせていただいた中村琢哉さん
本日はよろしくお願いします!

こちらこそよろしくおねがいします。

まずは中村さんのご経歴を教えていただけますか

僕は神奈川県の茅ヶ崎生まれで、3歳の時に父の仕事の関係で大阪に引っ越して、大学を出るまではずっと大阪でした。大学卒業後の進路では就職を選ばず、海外の大学院で街づくりに関する勉強をしたいと考えました。というのも、父が建設会社に勤めていたんですが、家によく建設現場のビデオを持って帰って見せてくれたこともあり「街づくりって面白そうだな」と子供のころから感じていたんです。

今の学生さんからは想像もつかないことだと思いますが、その当時はちょうどバブルで、学生一人あたり30社〜40社の内定をもらっていた時代なんですよ。そんなタイミングで「このまま社会に出ていいのかな、人と違うことがしたいな」という意識や街づくりへの想いもあり、葛藤の末にアメリカのオレゴン州、ポートランドというところにある大学院へ入学しました。その頃、オレゴン州は全米に先駆けて「都市計画をデザインする時には市民の意見を反映させるために、市民参加コンサルタントを雇うこと」という州法があったため、街づくりに興味がある人が世界中から集まるようなところでした。僕はそこで「都市計画における市民参加論」をテーマを選びました。卒業後はそのままアメリカで都市計画関係の仕事をやることも考えましたが、様々な人とのコミュニケーションが円滑に行える非常に高い語学力が求められる分野で、そのハードルの高さからアメリカでの就職は断念しました。

それでも不動産会社に入れば、徐々にそういったことに関わっていけるんじゃないかという期待を持ちながら、遅めの就職活動が始まりました。その時28歳で単純に新卒として面接しても落ちることはわかっていたので、履歴書以外にアピールレポートを作成し、アメリカから目ぼしい不動産会社に送ったんです。最終的に縁があったのがグローバライゼーションを進めるために人材を探していた野村不動産でした。他社がやらない事をやるという社風もあったので、他の方達とアプローチが違った僕を気に入ってくれたというのもあったと思います。

不動産ファンド事業に配属されて、そこで5年ほど勤めた後、ケネディクス株式会社に転職し、ずっとアセットマネージャーをやりながら、アメリカのロサンゼルスへの出向も経験させていただきました。ファンドという金融商品はアメリカ由来のもので、やはり本場は日本と違うところも多々ありました。僕は中学の頃から「絶対海外に住みたい」っていう夢があって、イギリスやドイツ、アメリカなど色々なところに投資案件があった当時の仕事は、まさに二十年来の夢が叶ったビジネスライフだったんです。

アメリカに住んでいた当時は想像もしなかった農業を楽しむ山梨での暮らし
とても順調なキャリアですが、そこから変化があったのですか?

ある週末の朝、アメリカでひたすら日本の番組を放送するJapan TVを見ていていた時のことです。ノスタルジックな音楽と一緒に和歌山県のどこかの棚田の風景が出てきました。朝早くからおばあちゃんがお台所でトントントントンってお味噌汁を作っている映像が流れたり、おじいちゃんが畑、棚田で作業している風景が映し出されたり。その映像を見た時に「俺こんなところで何やってるんだろう」って『思っちゃった』。中学の頃から海外で住むことを思い続けてきて、ようやくその夢が叶ったのに「日本人として生まれてきたのに、外国の地でこんなことをしていていいのか」と、その時にズガーンと雷が落ちたような衝撃は今でも忘れません。

他方で、自分の仕事に対して疑問を感じたことも重なりました。アメリカには地価や家の価格をチェックできるウェブサイトがあります。そこである時期に、会社の投資物件から少し離れた場所に大学院生時代に立ち寄ったことがある少し汚くて「ちょっとここ危険じゃないの」というエリアの家が約1,500万円だったんですが、10年後に3倍の約4,500万円になっていた。さぞ物件が綺麗に改築されたか、周りの環境が良くなったんだろうと思って見に行きましたが、1,500万円だった頃と何も変わっていないんですよ。当時アメリカには中東のオイルマネーがジャブジャブ入ってきて投資商品が飛ぶように売れ、実体のない価格の釣り上げが起きているという現象を実感しました。

そんな実体のない経済が音を立てて崩れたのが、2007年~2008年にアメリカを震源地として起こったサブプライムローン危機とリーマンショック。Bank of Americaが倒産したり、一年間に3,000万円〜4,000万円稼ぐような敏腕弁護士が無職になったりと、震源地だったアメリカは日本とは比較にならない有様でした。お金を投資してお金を稼ぐっていうことが、一夜にして崩れた時に、お金の怖さというか、みんなが価値を信じているから成立するという貨幣経済の前提の脆さに愕然とさせられました。そんな出来事から「自分の仕事ってなんだろう」と改めて見つめ直したんです。

この意識が強くなって、将来に悩んでいた時に出会ったのが「わら一本の革命(福岡正信著)」という本でした。人間のあるべき姿や自然について書かれていて、面白くて一気読みです。そこから地に足のついた生き方、お金だけじゃなく、自分で土地を耕して種を植えて、育った野菜を食べるという生き方に「これだ!」と確信しました。僕がいた業界は転職率が高く、その際はほぼ同業他社へ移っていくんですが、僕の場合は「農業をやりたい」ということだったので、みんな目が点になっていました。その後、46歳の時、家内の両親の移住先であり何度も訪れていた山梨県の北杜市に移住してきました。

 

ドットワークPlusで作業する中村さん

北杜市に移住後は農業のNPOで1年、北杜市農業企業コンソーシアムというところで2年、農業やその分野に関連する仕事を経験しました。計3年の地域おこし協力隊としての活動を終え、道の駅こぶちさわのマネジメント会社を紹介されたことで地域創生に深く関連する事業に携わることになります。これまで積んできたキャリアやスキルを活かした”不動産をマネジメントする視点”で道の駅を見ることで、すでにある温泉やホテル、直売所を活かしながら、相乗効果が見込めるテナントさんを引っ張ってくるテナントミックス戦略を進めました。また、ただ複合的なコンテンツのある施設というだけではなく、ここ北杜市にしかない新しいコンテンツが欠かせないと考え、道の駅の概念を覆すレストランを誘致しようと思ったんです。

というのも、道の駅こぶちさわには農家の方が早朝から収穫した野菜が、9時の開店に合わせてブワーっと並ぶんですよ。これを前面に出さない手はないなと思いました。それを活かせる人を探していたところ「これは間違いない!」というイタリアンのシェフに出会うことができたんです。丸原正直さんという当時は東京の広尾でレストランを経営していたシェフなんですが、経歴も腕前も本当に抜群ですし、いろいろ想いを伝える中で「日本一の道の駅のレストランにします!」って言ってくれました。そこで丸原さんとその仲間のシェフにお願いしたのは、実際にシェフの格好で毎朝買い物をしてもらって、ランチにはそこで買った地場産品をレストランのテーブルに並べてもらうこと。これが本当に美味しくて、そこで食べるものが売っているならということで、直売所の地場産品も売れていきました。更に売上を伸ばすために、私は広告を打っていいものを広めたいという気持ちが強かったんですが、丸原さんはそれに付き合ってくれませんでした。「美味しければお客さんはまた来てくれますから(笑)」と。

でも流石ですよね。結果的に、今までのレストランの客単価は600円〜700円だったものが、その3.5倍くらいになって、今では非常に人気のレストランに成長しました。県内・県外からもお客さんがたくさん訪れるようになって、効果が地域に波及したことを感じることができました。

そこからどのように富士吉田市に繋がりますか?

コロナ禍のテレワーク隆盛と言われる中で参加したオンラインセミナーでキャップクラウド株式会社と社長の萱沼を知りました。道の駅で5年ほど経った時で、やりたいことはまだまだいくらでもありましたが、ちょうど一息ついた時期で、オンライン広告で当社の募集を見つけたんです。富士北麓で地域創生事業のポジションを募集していて、そこからはすぐに話が進み、今は事業推進責任者として、まるサテにも関わっています。

▼富士吉田市の印象と中村さんから見た「まるサテ」

雄大な自然の中で苗を植える作業は未来の自分の身体を創る取り組みそのもの
富士吉田市の印象と中村さんから見た「まるサテ」について教えてください

同じ地方創生という言葉であっても、北杜市と富士吉田市では、後者の方がハードルの高さを感じています。というのも、北杜市は自然や農業といったある意味でリソースが限られている地域のため、地方創生の方向も自ずと見えてきたのですが、富士吉田市はリソースに溢れていて、どこから手をつけるか、どの方向に進むのかというところからかなり悩みましたし、常に自問自答しています。

我々が運営を始めた商業ビルが下吉田という地区にあるんですが、営利優先なのか社会性と両立させるのか、地方創生事業としての方向性を萱沼に尋ねたところ、「日本の地方創生のモデルを作りたいんです。社会性と経済性の両方が回るような事業をやりたい」という答えが帰ってきて、入社してよかったと感じました。僕が考える地方創生もその両輪を回すことでしたし、営利目的だけだったらプロジェクトの考え方も変わります。 ビル単体じゃなくて周りにも波及するような社会性の高い事業をしていくことは、 僕が昔から持っていた街づくりへの想いを反映できる仕事になるのではないかと考えています。

その基礎作りではないですが、北杜市と富士吉田市での二拠点居住を始めました。外から眺めているだけでは帰属意識が育まれず、この街をこうしたいなって多分思わないんじゃないかと思いますし、地元の方々からするとずっとよそ者でしかないと思うんです。こちらに来た当初は「北杜市に帰る」という感覚で、富士吉田市には「戻る」感覚でしたが、最近は「富士吉田市に帰る」と言えるようになってきました。いろいろな方と知り合ったり、 この場所を知るに連れて、「帰属意識ってこういう事なのかな」と実感しています。

地元の人、移住者、二拠点居住者などそれぞれが持っているもの、この街に対しての想い。これが一緒になった時に、本当にちょっとずつのスモールスタートでもやっていく。 僕たちの生きてる時代に、どうなるもんでもないと思ってるんですよ。もう僕が死んでも、この地域って100年も200年もあり続けるわけで。みんなが住んでて、楽しい、気持ちがいい、うれしいみたいな、そういう場所にしていくためのきっかけづくりを、一生懸命考え、汗を流して、工夫しながら手作りをしていくのが僕らの役割なんじゃないかと思っています。

▼中村琢哉さんからのメッセージ

農作業に協力してくれるメンバーには地域の子供たちも

宇根豊さんという農家であり思想家の本に書かれていたことですが、自然という言葉を江戸時代までは「じねん」と読んでいて、それはかみさま(八百万のかみ)、しぜん、ひと全てを指すものだったそうです。それが明治時代になって、「Nature」という言葉が入ってきた時に、今の「しぜん」に置き換わり、言葉としてしぜんとひとが分たれてしまった。僕はしぜんとひとを分ける考え方に子供の頃からずっと違和感があったんですが、宇根さんが明確な答えをくれました(笑)。

先般、FabCafe Fujiで個展をやっていたカナダのケベックから来ていた女性が、富士吉田市のことをネイチャーからアーバン、アーバンからネイチャーへのラストワンマイルというような言い方をしていましたが、それは僕の富士吉田市への印象と同じなんです。そんな場所だからこそ、日本人が古来から持っていた人と自然を分たれない「じねん」の想いがこもった地方創生をやっていきたいと思います。

◯「富士吉田市まるごとサテライトオフィス」とは

 

「富士吉田市まるごとサテライトオフィス(略:まるサテ)」は山梨県富士吉田市全体を使って、様々な事業者が富士吉田市内に自分のサテライトオフィス(企業または団体の本拠地点から離れた場所に設置されたオフィス)を手軽に持つことができる取り組みです。

 

(詳細:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000093585.html

 

◯富士吉田市まるごとサテライトオフィスでは取材に応じてくださる方を募集しております。

 

「地域活性や街づくりに興味がある!」

「今こんな活動をして街を盛り上げている」

「頑張っている人がいるので記事で紹介してほしい」

「面白い構想があるのでこんな方と繋がりたい」などなど。

 

ひとつでも当てはまったら是非ドットワークPlusにいらしてください!

記事執筆/宮下 高明